活動報告

 

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Vol.9 国際保健行政と海運:世界保健機関体制の意義と限界

防衛大学校准教授 石井由梨佳

 

はじめに

2020年1月から急速に拡大したコロナ感染症は、船舶の運航にも混乱と停滞をもたらした。クルーズ船舶については、外国船舶の寄港や乗客の上陸が拒否される事例が相次いだ。貨物船舶については、寄港拒否は稀であったが、寄港国の中には、貨物船舶に対しても入港許可を遅らせたり、船員交代のためのものも含めて船員の乗下船を認めなかったり、あるいは隔離を義務付けたり、貨物の運送を妨げたりする例があった。国際海運はグローバル供給チェーンの基盤である。世界保健機関(WHO)が主導する国際保健行政は、経済的開放性を柱に据えるリベラルな国際秩序に組み込まれている。感染症が発生した場合には、その蔓延防止を図りつつ、国際交通あるいは輸送への制約は最小限に抑えるのが19世紀以来確立した原則であり、それはWHOの2005年国際保健規則(IHR)でも認められている(1)それにも関わらず、殆ど全ての国が、外国船舶の入港や、船員と旅客の下船等に対して、制限的措置を取ったのは、感染力と致死性の高いコロナ感染症が安全保障上の危機と位置づけられたためである。これまでの海運に関する諸規則が円滑で効率的な海運の維持を志向していたのに対して、今後は感染症に対処するために、予防措置も含めた寄港国の公衆衛生措置が優先的に取られる可能性がある(2)

 

本ポリシー・ブリーフでは海運を規律する上で、WHO体制がいかなる意義と限界を有しているのかを検討し、今後の課題を示す。なお、入港中の船舶に対する寄港国の権限、旗国等による船舶内の感染症対策の強化、船員交代問題については、本ポリシー・ブリーフシリーズの西本論文を参照されたい(3)

 

国際保健規則における国際交通の制限

国を跨ぐ疫病の伝播を防止するための国際的な協調体制は、19世紀後半、累次の国際衛生会議で採択された国際衛生諸条約を通じて構築されてきた(4)。それらの条約は、共通して、厳格な検疫や国境閉鎖を含む不必要な国際交通への制限は回避されるべきことを定めていた。もっとも、それらの条約の主な狙いは、欧州以外の地域における特定の感染症が欧州に持ち込まれることを回避することであった。これを克服して、1948年、国際保健行政について連帯を強化するために、WHOが設立された。WHO総会は加盟国を拘束する規則として、1951年国際衛生規則、1969年IHRの後、現行の2005年IHRを採択した。

 

IHRの目的の一つが感染症対応による国際交通及び取引に対する不要な阻害を回避することである(2条。以下、括弧内条文番号はIHRのものである)。そして、IHRは影響地域からきたのではない通過中の船舶に対する追加的措置(additional health measures)の禁止等を定める。例えば、寄港国は公衆衛生を理由にした寄港拒否と自由通行許可(free pratique)の拒否ができない(28条1項)。しかしその例外として、IHR43条は、WHO加盟国は、公衆衛生上の緊急事態に対応して、(1)WHO の勧告と同じかそれ以上の保健水準を達成するものと、(2)輸送中の船舶や航空機に対する所定の規制措置を実施できることを定める。具体的には、加盟国は、公衆衛生上の緊急事態に対応して、WHO の勧告と同じかそれ以上の保健水準を達成する措置と、輸送中の船舶や航空機に対する規制措置を実施できる。ただしこれらの措置は、適当な保健水準を満たすと思われる合理的に利用可能な代替措置よりも国際交通を制限せず、かつ人に対して侵襲的または立ち入ったものであってはならない。これらの措置あるいはその他の追加的措置を実施する場合には、(a)科学的諸原則、(b)人の健康にリスクがあるという科学的証拠、またはその証拠が不十分な場合にはWHO等の国際機関からのものを含む情報、及び(c)WHOからの入手可能な具体的指針と助言に基づかなくてはならない。さらに追加的措置を取る場合には、加盟国は公衆衛生上の根拠と科学的情報をWHOに提供しなくてはならない(43条2項)。

 

WHOは国際交通制限を勧告することには慎重である。同機関は、コロナ感染症に関して、2020年1月の段階では人やモノの国際的移動への制限はしないことを勧告していた。その後、感染症の特性が明らかになるにつれ、WHOも人の移動規制の必要性を認めるようになる。もっとも、WHOは2020年4月の改訂戦略や2020年7月の報告書において、自国への帰還、食料等の重要物資供給のための貨物輸送は重要な目的のための国際的移動として認めるべきこと、それらは、国境封鎖や停止によって阻害するべきではないとも述べている(5)

 

寄港国による予防的措置

もっとも、IHRは、寄港国による予防的な交通制限措置を禁止するものではない。コロナ感染症については初めのうちはその特性や、どのような措置が有効であるのかが明らかになっていなかった。そこで、科学的証拠によって確実な指針が得られていない場合に、寄港国が船舶の入港を拒否したり、上陸に厳格な手続きを課したりすることが許容されるかが問題になった。IHRは予防原則(precautionary principle)について明文規定を置いていない(6)。また、科学的証拠が十分でない場合の対応についても規則を定めておらず、IHR43条2項bが、加盟国が利用可能な情報を根拠に追加的措置を決定することを定めるのみである。

 

しかし、第1に、IHR検証委員会はコロナに関する報告書において、次のように述べて予防原則に依拠した措置を取ることを推奨している。すなわち、新しい感染源に対処し、状況が進展するのにつれて新しい証拠が出てくる中で、国際渡航と貿易に対する公衆衛生措置のインパクトと、公衆衛生リスクとの均衡を図るとき、予防原則を考慮することは重要である。考慮するべき主要な要素は、科学的証拠の確実性、リスクの重大性、利害関係の大きさ、作為、あるいは不作為の潜在的なコストである。予防措置は、認識された脅威に相応するものであり、無差別的であり、新しい知見に照らして継続的に審査されるべきである(7)また「パンデミックへの備えと対応に関する独立パネル」(IPPPR)報告書は、人から人への感染が起きているかについて明らかではない段階においても、WHOは加盟国にそのような感染が起きていることを想定した助言ができたと指摘する(8)これらの見解はいずれも43条の例外を認めるものではなく、同条の範囲内で予防的措置を取ることを認めるものに止まる。

 

もっとも、第2に、第1の点に関わらず、IHRは国際交通を包括的に規律するものではない。IHRは他の国際的合意に規定された加盟国の権利及び義務に影響を及ぼすものではない(57条)。また、IHRは公衆衛生以外の理由に基づく制限的措置について規定を置いておらず、WHOの勧告なしにそのような措置を取ることを禁止していない。

 

以上のことから、寄港国は、43条の範囲内で予防策を講じるにせよ、安全保障等の理由においてIHR外の措置を取るにせよ、外国船舶の入港、荷揚げ、上陸等を制限できる。

 

国際海運の規律

また、陸路や航路とは異なり、海路では、人々が数日、数ヶ月という長時間にわたり、閉じられた空間で過ごさなくてはならないことから、海運特有の課題がある。

 

第1に、船舶は1つのユニットを形成しているため、船舶での感染症対策については、特別のプロトコルが必要である。IHRはこの点については具体的な定めを置いていない 。特に、国際クルーズ船舶で感染症が発生した場合、数千人の乗客と乗組員が1つの船舶内で居住しているところで、隔離対策や検疫を実施しなくてはならない。検証委員会も、これはIHRが想定していない規模の課題であるとして、国際クルーズ船における隔離・検疫措置の実施について、規則の下での締約国の責任の限界を明確に定義することを検討すべきだと指摘している(10)

 

第2に、IHRは海運の主要なアクターである、運航会社や、船員、乗客等の権利や利益保護については規則を設けていない。しかし、例えば、感染症罹患者を乗せた船舶の寄港や、そのような船舶の乗組員や乗客の上陸を認めるかの判断は、IHR43条が定める諸要素だけではなく、隔離対策や蔓延防止措置を含めて、船舶が適切な安全管理を行なっているかに基づいて行わなくてはならない。船舶が寄港前にそれらの情報を提供することも必要である。

 

さらに、冒頭に述べた海運の混乱を是正するためには、短期的には寄港や貨物の輸送等に必要な手続を簡易化し、物流の効率を高めることが必要である。中長期的には、寄港国、旗国の権限配分を明確にし、関係国や関連アクターの協力を強化する必要がある。また、感染症対応のための行動指針には一定の共通項があるため、非拘束的な規範も参照しながら、船舶内の感染症を抑え、必要な場合に患者が医療にアクセスできるような体制を構築する必要がある(11)これらについては、既に国際海事機関(IMO)が策定する規則や指針で取り入れられているため、実践ではそれらの仕組みを改定、活用することが行われている(12)

 

加盟国の情報提供、及び能力構築義務の履行

WHO体制の下で保健行政を実施するには、加盟国の情報提供と港湾等の能力構築が必要不可欠であり、これらの義務はIHRに規定されている。

 

しかし第1に、WHO加盟国はWHOが勧告等を出すために必要な情報を提供しないことが多い。感染症について情報提供することはその国にとって風評被害を招くなどして経済的損失をもたらす恐れがあるのにも関わらず、そのインセンティブを与える仕組み、あるいは報告しなかった場合に効果的な制裁を与える仕組みができていないためである。WHOは国際機関、NGO、個人など、政府以外の主体からも情報を得るようにしている。しかし、感染症の発生源の調査や流行範囲の具体的な情報については現地政府の受け入れが必要であるし、現地で表現の自由が規制されている場合には情報が即時に入ってこない。コロナに関しても、加盟国による通報や情報提供が遅かったことが、WHOの初動を遅らせた。例えばIPPPR報告書は特に初期の段階において十分な情報共有がなされなかったとした(13)。WHOに寄せられる情報の質と量が低いままで措置を取るかの判断を下さなくてはならないのは、WHO体制の目指すところではない。そのため、加盟国によるWHOへの感染症に関する情報及び国際交通に関する措置についての科学的根拠提供を促す仕組みの策定が必要となる。

 

第2に、IHRは感染症対応のための監視、制御能力構築を加盟国に義務付けており(5条、13条)、途上国の能力を高めるための援助、協力義務も定めている(13、44条)。しかし、それらの義務は「可能な範囲で」実施が求められているのに過ぎない。海運を維持するためには、寄港国が感染者の隔離、治療を含めた対応をする能力を持たなくてはならない。そのため、途上国支援が適切になされ、効果的な能力構築がなされることが求められる。

 

終わりに

ここまで述べたIHRの限界は、コロナ感染症によって新しく生じたものではなく、従前から認識されていたことが、顕在化したものである。本稿で指摘したIHRとWHO体制の限界を踏まえるならば、感染症に対応するための規則や標準の策定は、既に海運を規律するスキームがあるIMOや国際労働機関(ILO)でなされるのが適切であるし、実際にそのように標準の策定や海上労働条約の改正の検討が行われている。

 

2021年3月に出された、外務省委託調査「観光旅客船内における感染症の拡大の予防及び感染症が拡大した際の国際的な対応の在り方に関する調査・研究業務」最終報告書が指摘するように、ポストコロナにおいては「信頼性のある船舶」(ships of confidence)と「信頼性のある港湾」(port of confidence)を増やすこと、体系的で予測可能な国際的な制度枠組みを整備しなくてはならない(14)。そのためにも、国際保健行政のあり方について共通認識を醸成し、円滑な海運を維持するための規範形成を進めることが必要である。

 

[脚注]

(1)International Health Regulations (2005), available at https://www.who.int/publications/i/item/9789241580496.
(2)鈴木一人「ウィズ&ポスト・コロナ時代のグローバルヘルスに関わる国際政治と日本―ソリダリティの再定義」グローバルヘルス・ガバナンス研究会ポリシーブリーフ「ポスト・コロナ時代の国際保健外交―日本の戦略を問う」日本国際交流センター. 2021-08-10. vol. 1参照。
(3)西本健太郎「国際保健行政と海運:入港中の船舶に対する寄港国の権限と船員の交代問題」グローバルヘルス・ガバナンス研究会ポリシーブリーフ「ポスト・コロナ時代の国際保健外交―日本の戦略を問う」日本国際交流センター. 2022-02-04. vol. 8.
(4)西平等『グローバル・ヘルス法:理念と歴史』(名古屋大学出版会、2022年);新垣修『時を漂う感染症――国際法とグローバル・イシューの系譜』(慶應義塾大学出版会、2021年)参照。グローバルな保健行政の意義については、城山英明「グローバル保健ガバナンスとは何か?」城山英明編著『グローバル保健ガバナンス』(東信堂、2020年)4頁参照。
(5)WHO, “COVID-19 Strategy Update,” 14 April 2020, https://www.who.int/publications/m/item/covid-19-strategy-update ; WHO, Policy considerations for implementing a risk-based approach to international travel in the context of COVID-19, https://www.who.int/publications/i/item/WHO-2019-nCoV-Policy-Brief-Risk-based-international-travel-2021.1.
(6)なお、予防原則(precautionary principle)は、人間活動の影響について科学的不確実性がある場合に、予防的行動を取ることを行為者に義務付ける。
(7)Review Committee, Report of the Review Committee on the Functioning of the International Health Regulations (2005) during the COVID-19 response, 30 April 2021, para. 96, https://www.who.int/publications/m/item/a74-9-who-s-work-in-health-emergencies.
(8)IPPPR (The Independent Panel for Pandemic Preparedness & Response), 2020, COVID-19: Make It Last Pandemic, p.25, https://theindependentpanel.org/wp-content/uploads/2021/05/COVID-19-Make-it-the-Last-Pandemic_final.pdf.
(9)ただし、WHOが指針やハンドブックを出している。WHO, Interim WHO Technical Advice for Case Management of Pandemic H1N1 2009 on Ships, 13 November 2009, available at https://www.who.int/csr/resources/publications/swineflu/cp011_2009_1029_who_guidance_H1N1_ships.pdf; WHO, Handbook for Management of Public Health Events on Board Ships, 2016, available at https://www.who.int/publications-detail-redirect/handbook-for-managementof-public-health-events-on-board-ships.

(10)The Review Committee on the Functioning of the International Health Regulations (2005) during the COVID-19 Response, EB148/19, 12 January 2021, para. 39, https://apps.who.int/gb/ebwha/pdf_files/EB148/B148_19-en.pdf.
(11)河野真理子(2021年)「海洋法における「人」の権利と利益の保護および規律 : コロナ禍における船員の保護を中心に」『国際法外交雑誌』120巻1・2号,212-223頁参照。
(12)この点は、拙稿「ポスト・コロナにおける海運とインフォーマルな法形成」『国際法研究』10号(信山社、2022年3月刊行予定)参照。
(13)IPPPR, supra note 7, p. 26.
(14)外務省委託調査「観光旅客船内における感染症の拡大の予防及び感染症が拡大した際の国際的な対応の在り方に関する調査・研究業務」最終報告書, https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_009030.html.

 

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石井由梨佳「国際保健行政と海運:世界保健機関体制の意義と限界」グローバルヘルス・ガバナンス研究会ポリシーブリーフ「ポスト・コロナ時代の国際保健外交―日本の戦略を問う」日本国際交流センター. 2022-02-14. vol. 9.

 


ポリシーブリーフ「ポスト・コロナ時代の国際保健外交―日本の戦略を問う」は、当センターが東京大学未来ビジョン研究センターと共同で実施しているグローバルヘルス・ガバナンス研究会(GHG研究会)のメンバーが、今後のグローバルヘルスにおける日本の役割を考える上で検討が求められる課題の論点を整理し、問題を提起することを目的に執筆しているものです。なお、本研究会は、外務省の令和3年度外交・安全保障調査研究事業費補助金(総合事業)を得て実施しています。

 

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