活動報告
Vol.6 パンデミック対応における病原体と関連情報の国際共有上の課題と選択肢のレビュー
東京大学 公共政策大学院 特任准教授 松尾真紀子
パンデミック対応を目的とした病原体の国際共有枠組みの必要性
COVID-19が世界的なパンデミックとなったことを受けて、グローバル保健ガバナンスの再構築に向けた議論が活発に展開されている。世界保健機関(WHO)における独立パネル(IPPPR)(1)等の検証主体、グローバル健康危機への備えのモニタリングに関する委員会(GPMB)(2)、G7の保健大臣宣言(3)、G20の独立ハイレベルパネル(4)、そして2021年11月の世界保健総会(WHA)(5)等において、今後のグローバル保健ガバナンスの改善に際して検討が必要な問題の一つと指摘されているのが、病原体やその関連情報である遺伝子情報(GSD:Genetic Sequence Data)の迅速な国際共有のメカニズムである。
人にパンデミックを起こす可能性があるインフルエンザウイルス(IVPP)の国際共有を可能とする枠組みについては、2007年の鳥インフルエンザA(H5N1)発生の際に、インドネシアが生物多様性条約(CBD)で認められている領土内の遺伝資源に対する主権を理由に病原体の共有を拒否したことに端を発し、WHOで議論がなされ、「パンデミックインフルエンザ事前対策枠組み(PIPF)」が設立された。しかし対象がIVPPに限定され、ほかの病原体は対象でなかった。このため、その後も国際的な感染症の問題が生じる度に、病原体の国際共有枠組みの必要性が論じられてきた。
そこで以下では、病原体とGSDに関連する国際枠組みと、国際共有上の課題や今後の選択肢に関して、既存の文献(6)等から整理する。なお、病原体とGSDは密接に関連するが、異なる性質もあるため、別々に整理する(表1参照)。病原体については、物理的に特別な施設や手続きが必要となることに加え、遺伝資源へのアクセスと利益配分(ABS:Access and Benefit-Sharing)に関する国際機関での枠組み・ルールが一定程度ある。他方、GSDについては、まさにこれらが議論されているところである。また、GSDは将来的には病原体の代替物になりうる点にも留意が必要である。
表1:病原体とそのGSD及び関連するデジタル情報
病原体の共有に関連しうる国際枠組みと課題
病原体を共有する上では国境を超えた移動が必要となるが、それに関わる国際枠組みとしては、公衆衛生上の目的とは別の、生物多様性条約(CBD)・名古屋議定書がある。周知の通りCBDは、生物多様性の保全・持続可能な利用とともに、遺伝資源の利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分(ABS)を目的に掲げている。CBDの「遺伝資源」の定義上、ウイルス・病原体も条約の対象とされ、ABSの対象になる(すなわち、利用に際して、事前の同意と相互の合意が必要となる)。CBDのABSの実施手続きを定めたのが名古屋議定書である。名古屋議定書には、ほかの専門的な国際枠組みが存在し、それがCBD・名古屋議定書の目的に適合する場合は同議定書を適用しないとの規定(名古屋議定書4条4項)や、公衆衛生上の特別な配慮に関する規定(名古屋議定書8条(b))、等がある。パンデミックへの対応では、例えば上記4条4項の規定を用いて、後述のPIPF等の対象を名古屋議定書の適用から外す、といった対応がありうる。ただし、PIPFが同規定に該当するかについては、国内法に落とし込む際に国ごとの解釈が入る。日本では、名古屋議定書のABS指針からPIPFとワクチン製造目的の季節性インフルエンザ株を外しているが、ほかの国では必ずしもそうされていない。結果、国ごとに異なる複雑な規制が共有手続きを遅らせている。
公衆衛生の観点からは、WHOの国際保健規則(IHR)と上述のPIPFが関連しうる。IHRは、いわゆる「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」の際に加盟国がWHOに公衆衛生上の情報提供をすることを義務づけている。しかし現状では、この情報提供の中には病原体もGSDも含まれていない。一方、PIPFはIVPPについての国際共有を可能とし、また、商業利用する場合はABSの仕組みもある(7)。しかし前述の通り対象はIVPPで、コロナをはじめとする他の病原体は含まれない。また、IHRと異なり法的拘束力を伴わない枠組みである。
その他、病原体の共有に際しては、上記の生物資源や公衆衛生の観点の枠組みや主体に加え、人畜共通やワンヘルスの観点から国際連合食糧農業機関(FAO)やOIE(国際獣疫事務局)等、ワクチン研究・開発等における知財の観点から世界貿易機関(WTO)等、また、バイオセキュリティの観点から生物兵器禁止条約(BWC)等、様々な分野の組織・制度からの考慮事項があり得、それらを所管する国際機関との調整も潜在的な検討対象となりうる。
次に、病原体の国際共有上の課題としてこれまでに指摘された点(8)を以下に挙げる。上述の、ウイルスへの主権に由来するCBD・名古屋議定書のABSの各国の措置・手続き上の不確実性に加えて、別の政治的要因として、国家が自国のレピュテーション、貿易や渡航等への影響を恐れて病原体の存在を認めない場合もあることも指摘された。また、低・中所得国では人的・設備的・金銭的なキャパシティ不足により共有したくてもできない点もある。更に、パンデミックを起こしうる病原体についてはバイオセキュリティ上の観点から厳重な手続きが必要となる。倫理的な観点や個人情報保護の考慮も重要とされる。科学者コミュニティは、信頼に基づく病原体の共有を慣行としてきたため名古屋議定書等の手続きの負荷が大きいとする。一方、科学者コミュニティに対しては、論文査読中病原体に関して公開しない為、ジャーナルの査読プロセスが迅速な共有を妨げるという指摘もある(9)。その他、ABSについても、「便益」は当事者間の相互の合意に基づくものであり、金銭的・非金銭的なものまで様々であるため、合意するのに時間を要す。また、現状では、病原体共有を二国間で適宜行っており、多国間で効率的に共有する仕組みがない。
GSDに関連しうる国際枠組みと共有上の課題
GSDについては、その用語やスコープ、取り扱いを含め様々な国際機関で議論されているところである。名古屋議定書ではDSI(Digital Sequence Information)という言葉で議論されている。途上国は、DSIもABSの対象とするべきと主張しているが、CBDの定義上遺伝資源は「物質(material)」であること、また、すでにオープンに共有されてきた膨大なGSDのデータベースが存在し、それらをめぐり、途上国と先進国・業界側の間で意見の相違が激化している(10)。一方、WHOでもGSDの問題は議論されている。特に昨今はPIPFの枠組みにおけるGSDについて第70回WHA(2017年)の決議やそれに基づく報告などがなされている。
GSDの共有上の課題としては、上記の病原体で整理した課題と類似のものに加え、特にABSの経験がない点が挙げられる。GSDの利用で生じるベネフィットも適切に公平に共有されるべきと理解がある一方、仮にGSDをABSの対象とする場合には様々な課題もある。特に科学者コミュニティはオープンデータの利用や研究への影響を懸念している。また電子データは、物理的な管理が可能な病原体と異なり利用の追跡をどのようにするのかも検討が必要である。その他、データの公開の有無、利用制限・条件・対象の違い、再利用・加工の可否等々が異なる様々なデータ分析機関がすでに歴史的に構築されてきた点も状況を複雑にしている。さらに冒頭で述べたようにGSDが病原体の代替になりつつあることも今後注意すべき点である。現状では、検査キットの作成、ワクチン開発等で病原体そのものが不可欠で、GSDが病原体の代替にはならないが、今後技術の進展に応じては、ABSやバイオセキュリティの懸念も現実味を帯びるため、備えの検討をしておいた方が良い。
病原体の国際共有に関する検討
以上の整理を踏まえて最後に病原体の国際共有に関して検討する(図1)。なお、GSDと病原体はセットで議論がされつつある。しかし上述の通り特有の問題も多く、ここでは、まずは病原体共有について検討する。
対応の方向として、既存の国際枠組みを改善することに軸を置いて進めるか、新規の国際枠組みを構築することに軸を置いて進めるか、の二つの方向性が考えられる。前者のアプローチでは、WHOやCBDでのこれまでの議論を踏まえた検討が要される。WHOを選択した場合、IHRを改訂し、例えば、加盟国が公衆衛生上通報すべき情報(IHRの6条2項)に病原体を含めることが考えられる(選択肢①)。IHRは全加盟国に法的拘束力を持つので実効性のメリットがある一方、現時点でさえIHRは十分に機能していないので報告すべき対象を増やしても機能しないのではないか、との懐疑的な意見もある。もう少し緩やかな枠組みを選択する場合は、PIPFの活用が考えられる。具体的には、パンデミックを起こしそうなインフルエンザウイルスのみならず、パンデミックを起こしそうな病原体にも対象を拡大するという考えである(選択肢②)。この選択肢のメリットは、すでにIVPPや季節性インフルエンザの収集・共有のネットワークであるGISRS(世界インフルエンザサーベイランス・レスポンスシステム)が存在すること、またIVPPについてはABSの仕組みと経験がある点である。また、すでにPIPFのプラットフォームを利用してCOVID-19のデータについて共有するといったことも一部行われはじめている(11)。他方、PIPFは、法的拘束力を伴わないため各国に病原体共有の義務はなく、実効性が課題になる。また、過去にもIVPP以外の病原体への対象拡大の議論はあったが、当時、GISRSのキャパシティを超えてしまう懸念が指摘されたので、この選択肢を追求する際には資金・運営とセットで検討する必要がある。また病原体を国境を越えて移動させる場合には、上記いずれをするにしても国によってはCBD・名古屋議定書が関連する可能性が大きいので、そことの調整は必要となる(選択肢④で後述)。次にCBDの枠組みで検討をする場合(選択肢③)が考えられるが、グローバルヘルスの専門性の欠如、主要国である米国が未締結であることなどもあり、CBD「単独」でこの問題に対処することは現実的でない。ただし、CBD・名古屋議定書には前述の通り、ほかの国際枠組みや公衆衛生上の配慮をする(第4条4項や第8条(b))等の条項があるので、WHO等と協力して検討するアプローチもありうる(選択肢④)。具体的には、上記関連条項についての解釈のガイダンス・指針を作成することで、現状、国によって異なる(もしくは未だに規定していない)病原体取扱いについての国内措置の調和を促し、並行して、WHOのPIPFの病原体の枠組みを拡大ないし、新規の枠組みで引き取る(選択肢⑤)というやり方である。前述の通り日本は名古屋議定書のABS指針からPIPFとワクチン製造目的の季節性インフルエンザ株を外しているが、実は国内措置でこのような明示的な対応をしている加盟国は少ない。日本の国内法をモデルに調和に向けた働きかけをしていくことはありうるのではないだろうか。
新規の枠組みで検討する場合(選択肢⑤)で想定されるものとしては、現在欧州などが主導しているパンデミック条約が挙げられる。この枠組みでは④の選択肢の受け皿の機能を持つことが考えられる。このアプローチを推す側は、既存の機能不全の枠組みの改善に注力するよりも新規に作る方が早いとする。確かにそういう側面もありうるが、その際にも既存枠組みとの調整・補完の検討は必要で、既存の活用を上回るメリットも必要となろう。上記いずれの道も実現には長い国家間の交渉を要す。できるところから緩やかに進めるアプローチとしては、2021年5月にWHOとスイス政府が設立したWHO BioHub Systemがある。現在合意可能なメンバーで非商業目的に限定して試行的に展開している(12)。しかし本格的に機能を拡大する場合、既存の枠組みとの調整はいずれは必要になっていくだろう。
以上、本稿ではこれまでの文献等をもとに病原体とGSDに関連する国際枠組みと国際共有上の課題を整理し、予備的考察を行った。こうした検討には、各国の利害関係、時間的制約、実行可能性、政治的気運等様々な要素も考慮する必要がある。また、本稿では具体的な検討においてGSDを別に扱ったが、今後の課題としては、国際枠組みにおけるGSDの位置づけ自体についても検討が要される。多様な国際的議論の推移を見つつ、いかにすれば病原体やGSDをよりグローバルに共有でき、国際社会の公衆衛生の向上につながるのか、をさらに検討していく必要がある。
図1:病原体の国際共有に関する検討
[脚注]
(1)IPPPR (2021) COVID-19: Make it the Last Pandemic.
https://theindependentpanel.org/wp-content/uploads/2021/05/COVID-19-Make-it-the-Last-Pandemic_final.pdf
(2)GPMB(2021) A World Prepared – Global Preparedness Monitoring Board Strategic Plan 2021-2023.
https://www.gpmb.org/docs/librariesprovider17/default-document-library/gpmb-strategicplan-2021-23.pdf?sfvrsn=1a91dc8c_3&download=true
(3)G7 Carbis Bay Health Declaration.
https://www.mofa.go.jp/files/100200011.pdf
(4)G20 HLIP (2021) A Global Deal for Our Pandemic Age.
https://pandemic-financing.org/report/foreword/
(5)2021年11月開催のWHOの特別セッションで議論される文書においては、WHO Convention, Agreement or Other International Instrumentの中でとりあげられている。
WHO (2021) Draft report of the Member States Working Group on Strengthening WHO Preparedness and Response to Health Emergencies to the special session of the World Health Assembly https://apps.who.int/gb/wgpr/pdf_files/wgpr5/A_WGPR5_2-en.pdf
(6)主に下記の文献等の内容を参考に整理した。
Burci et al. (2021). International Sharing of Human Pathogens to Promote Global Health Security—Still a Work in Progress, ASIL Insights, Vol.25, Issue 13.
Rizk et al. (2020). Everybody knows this needs to be done, but nobody really wants to do it. Graduate Institute of International and Development Studies, Global Health Centre.
Rourke et al. (2020). Policy opportunities to enhance sharing for pandemic research. Science, 368(6492), 716-718.
Gostin et al. (2017). The global health law trilogy: towards a safer, healthier, and fairer world. The Lancet, 390(10105), 1918-1926.
CEBM (2015). WHO consultation on Data and Results Sharing During Public Health Emergencies. Background Briefing.
(7)PIPFに民間が参加する場合は、物質移転の契約(Standard Material Transfer Agreement: SMTA)のSMTA2を交わし、パートナーシップの支払い (partnership contribution)と便益提供について取り決めをする。なお、国によっては上記CBDの名古屋議定書の国内法がかかる場合もある。
(8)主として脚注6に掲げた既存文献をもとに整理した。
(9)ただし、一方で今回のCOVID-19においては、査読を経ずにプレプリントな情報公開も爆発的に進んだという指摘もある。
(10)名古屋議定書の詳細については以下を参照。市原準二、小山直人、野崎恵子(2021)「生物多様性条約ポスト2020生物多様性枠組第3回公開作業部会(オンライン)」参加報告 -デジタル配列情報を中心に-」『バイオサイエンスとインダストリー』vol79 No.6 p.498-501
(11)WHOウェブサイト
https://www.who.int/news/item/21-05-2021-preventing-the-next-human-influenza-pandemic-celebrating-10-years-of-the-pandemic-influenza-preparedness-framework
(12)まずは協力可能な加盟国で非商業目的のコロナウイルスの共有に関する試験的な取り組みを開始した。
WHOウェブサイト https://www.who.int/initiatives/who-biohub
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松尾真紀子「パンデミック対応における病原体と関連情報の国際共有上の課題と選択肢のレビュー」
ポリシーブリーフ「ポスト・コロナ時代の国際保健外交―日本の戦略を問う」は、当センターが東京大学未来ビジョン研究センターと共同で実施しているグローバルヘルス・ガバナンス研究会(GHG研究会)のメンバーが、今後のグローバルヘルスにおける日本の役割を考える上で検討が求められる課題の論点を整理し、問題を提起することを目的に執筆しているものです。なお、本研究会は、外務省の令和3年度外交・安全保障調査研究事業費補助金(総合事業)を得て実施しています。