活動報告
米国における日本理解の促進および日米関係の向上に尽力し、米国法人日本国際交流センター(JCIE/USA)の理事長を務めた弁護士の村瀬二郎氏(ビンガム・マカッチェン・ムラセ法律事務所筆頭パートナー)の遺徳を偲び、2014年10月27日に東京でJCIE日米関係セミナーおよび村瀬二郎メモリアル・レセプションを開催しました。
8月に村瀬氏が逝去された後、ニューヨークでは9月25日にジャパン・ソサエティが中心となり追悼レセプションが開催されましたが、東京では安倍晋三内閣総理大臣をはじめ村瀬氏の日米両国の友人26名が発起人となり、日米関係を考える対話の場として、村瀬氏を偲ぶ機会として設けることになりました。
JCIE日米関係セミナー
第一部はJCIE日米関係セミナーとして開催し、激動する国際社会にあって日米関係をいかに運営・強化していくべきかパネルディスカッションを行い、国会、法曹界、政府省庁、経済界、学界などから400名余にご参加いただきました。
冒頭、オープニング・リマークスで北岡伸一国際大学学長は、貿易摩擦を初めとする戦後の日米関係の数々の課題に、両国の懸け橋として重要な役割を果たした村瀬氏の生涯を振り返り、共通の価値・共通の戦略的利害を持つ日米関係であっても、それを維持し強化していくためには人的ネットワークが必要であり、村瀬氏や故山本正(JCIEファウンダー)が果たしてきた役割は大きかったと述べました。
(動画)開会挨拶~オープニングリマークス
続くパネルディスカッションは、春原剛日本経済新聞社編集局長付編集委員をモデレーターに、ジョン・ハムレ戦略国際問題研究所(CSIS)所長、藤崎一郎前駐米日本大使、ロバート・フェルドマンモルガン・スタンレーMUFG証券日本担当チーフアナリストをパネリストに迎え、日米の同盟関係および経済・貿易問題について討論が行われました。
中国の躍進、北朝鮮の核問題、米ロ関係の緊張、中東情勢など国際環境が激動しているなかにあって、日米同盟は過去50年の中で今が真に重要な時期になっているのではないかという点が、多くのパネリストから繰り返し強調されました。ハムレ所長は、米国の中間選挙が近づいているが、民主主義という価値観を共有する日本との関係が、米国の対アジア政策の中心であるという認識は民主党・共和党ともに共有されていると述べた上で、環太平洋連携協定(TPP)の交渉妥結の見通し、TPPが日米両国の貿易と地域の繁栄と安定にとってどのように資するか、さらに日本のエネルギー問題についても経済的側面と安全保障の側面から議論が繰り広げられました。
(動画)パネルディスカッション 前半
(動画)パネルディスカッション 後半
春原剛氏 |
ロバート・フェルドマン氏 |
藤崎一郎氏 |
村瀬二郎メモリアル・レセプション
セミナーに引き続き、村瀬二郎氏のメモリアル・レセプションが、代表発起人である安倍晋三内閣総理大臣の出席のもとに行われました。安倍総理は、長年にわたる村瀬二郎氏および村瀬家との親交を紹介し、有徳の人である村瀬氏の人格の力によって日米のきずなが強化されてきた、とその生涯を称えました。また、村瀬二郎氏の御子息の村瀬悟氏(ビンガム・マカッチェン・ムラセ法律事務所パートナー、米国法人JCIE理事)より、村瀬二郎記念奨学金の設立が発表されました。日本の高校生・大学生が短期の米国での経験を積む機会を提供する奨学金で、村瀬家、米日財団、ジャパン・ソサエティ村瀬二郎ファンドへの寄付金をもとに発足し、Beyond Tomorrow (一般財団法人教育支援グローバル基金)が事務局として運営します。
プログラム[494KB]
安倍晋三内閣総理大臣 |
村瀬悟氏 |
(動画)開会宣言~挨拶~献杯
(動画)村瀬二郎記念奨学金設立の報告
村瀬二郎氏 プロフィール
1928年(昭和3年)5月16日ニューヨークにて出生。
父村瀬九郎、母みよ
父九郎は現在の名古屋大学医学部(当時は愛知医科専門学校)を卒業、外科医となった。日露戦争に軍医として従軍の際、野戦病院で麻酔薬もないまま負傷兵に大きな手術をするという過酷な経験をしたことから、途中で眼科医への転向を思い立ち、ニューヨークに渡りベリュビューホスピタルに留学、そのまま現地で開業。
ニューヨークで幼年時代を過ごした二郎は、父九郎のたっての希望で1936年(昭和11年、ヨーロッパではベルリンでオリンピックが開かれた年)に母みよと共に日本に帰国。兵庫県の阪急沿線にある塚口の尋常小学校に入学。
この後不幸にして、日米両国は対戦に突入、父九郎、兄一郎はアメリカに残され、母みよ、二郎は日本の塚口にと家族別れ別れにひきさかれる。その間1942年(昭和17年)に兵庫県立旧制芦屋中学校に進学、終戦をはさんで1947年(昭和22年)に芦屋中学校を卒業。
戦時中は日本の勝利を信じて疑わなかった軍国少年だったと本人は述懐していた。
芦屋中学を卒業した10月に、米国に帰国。ニューヨークのハイスクールにて一年学んだ後、米国陸軍に入隊、1年間米国市民としての義務を果たした。復員後はニューヨーク市立大学から、名門ジョージタウン大学のロースクールに進み、1958年(昭和33年)に卒業。まずは首都ワシントンで弁護士資格を取得、ついでニューヨークでも弁護士資格を取得。
Marks Murase and White 法律事務所の前身であるWender Murase and White法律事務所を設立したのは、ニューヨークで弁護士を開業してから12年後の1971年のこと。
ワシントン、ロサンゼルスに事務所がある他、東京、ソウル、トロント、メキシコシテイ、ロンドン、パリ、デュッセルドルフ、ハンブルグ、ローマ、ミラノ、ストックホルムなど世界各地でパートナーシップをくんで提携事務所を展開し、文字通りワールドワイドな活動をしていた。
この間、フォード政権とカーター政権の両政権のもとで、貿易交渉に関する大統領諮問委員会の委員に任命されたのを始めとして、1975年以来、アメリカ国務省の国際投資技術開発諮問委員会の委員を務める。また、日本国際交流センターの米国法人理事長、ニューヨークのジャパンソサエティ(日本協会)の常務理事、ニューヨーク州の世界貿易評議会の委員を務める一方、1985年からは三極委員会(旧:日米欧委員会)の委員を務め、日本と北米、欧州、アジア太平洋の融和にも尽力。
日本および米国の政界、財界、官界のキラ星のような方々との親交を深め、”ジロー”と親しみを込めて呼ばれた。アメリカ国内において経済界はもちろん、政界ではトム・フォーリー下院議長、サム・ナン上院軍事委員長、ロバート・ドール共和党上院院内総務、ダニエル・イノウエ上院議員、スパーク・マツナガ上院議員などと永年にわたる親交を結んできた。マックス・ボーカス元上院議員(現在は中国駐在米国大使)、テネシー州ジム・サッサー元上院議員、アル・ゴア元副大統領など、父二郎の友人たちとの家族ぐるみの付き合いは今でも続いている。
過去の功績もさることながら、今日、将来の日米関係のあらゆる局面で活躍、日本、アメリカ両国にとって欠かすことのできない人材であった。1989年に勲二等瑞宝章を受章。
2014年8月5日没、86歳